言語には2種類あります。
一つ目は、生活密着型の生活言語、
二つ目は、抽象概念を扱うための学習言語。
この二つです。
日本語対応手話がどうして人為的に聾学校により作られたか?というと、伝統的な日本手話では抽象概念を扱えず学校教育に堪えなかったからです。
日本手話には、根本的な欠陥が二つあります。
1.肉体および3次元空間に依存すること。
2.文字を持たず、記録できないこと。故に、眼前の具象物は容易に取り扱えるが時空をまたいでの抽象概念の取り扱いは困難であること。
「身体に依拠する手話は5000語以上の語彙を持つことは困難だろう。」とも主張しています。
聴覚障害教育における日本手話・日本語バイリンガル・アプローチによる授業でも、授業の実態を見ると日本語の語彙を借入してきているに過ぎないことが推察できます。
生活言語としての日本手話は非常に優秀ですが、実態として、学習言語としては性能が不足していると言い切っても、差し支えないでしょう。更に日本手話の話者の人数を踏まえても、今以上に抽象概念を自由自在に扱える言語になるとも思えません。
言い換えます。
義務教育が日本語で行われていることを踏まえると、
1.日本語が分からないと、教科書が理解できない。
2.日本語が分からないと、ノートも取れない。
ここに欠陥は集約されると思います。
結局のところ、日本社会で生活していく上では、デファクトスタンダードである日本語を使いこなすことができなければ、義務教育すら満足に修めることが難しいのです。
すると、聾ならば日本語の代わりに手話を使えばいいというわけにはいかないことが、わかるのです。
個人的に、手話には恨みもつらみもないし、生活言語としての優れた点を沢山認めています。でも、学習言語としては不足している。この点、金沢方式が考えていることと私が考えていることは、大差ありません。
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